『安心論題 六』- 信一念義
「安心論題(十七論題)」に設けられた論題の一つ。信一念義はその6番目に位置づけられる。
題意(概要)
『仏説無量寿経』には第十八願成就文(本願成就文)が説かれている。
【漢文】
諸有衆生・聞其名號・信心歓喜・乃至一念・至心廻向・願生彼國・即得往生・住不退轉・唯除五逆・誹謗正法(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.64-65より、下線は筆者が引いた) 【書き下し文】
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.41より、下線は筆者が引いた)
上記引用文の下線部「諸有衆生・聞其名號・信心歓喜・乃至一念」の「一念」について、宗祖親鸞の解釈を明らかにしていくのがこの論題である。
親鸞は信の一念とは信心の始まる時(瞬間)であり、その時に私たちの浄土往生成仏が決定すると解釈した。このことから私たちの往生成仏を決定するのはただ信心一つである。言い換えれば信心ただ一つが往生成仏の因である。
親鸞は一念について「信の一念」と「行の一念」があると示した。信の一念について論じるのがこの信一念義という論題であり、また行の一念について論じる行一念義という論題がある。
出拠(出典)
先に挙げた本願成就文のほか、これを親鸞が解釈して述べた以下の文が出拠として挙げられる。親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「行文類」の中で次のように述べた。
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.187より)
それを承けて『教行信証』「信文類」に次のように述べた。
それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.250より)
釈名(語句の定義)
信
先に引用した「信文類」に「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。」とあるように、「信」とは本願(第十八願)に説かれる三心(至心・信楽・欲生)の信楽のことである。仏教知識「『安心論題 二』- 三心一心 前編」の釈名の項で述べた通り、これには無疑という意味がある。
一念
「一」には極促という意味があり、「念」には時剋という意味がある。時剋は時間の意であるが、極促については2つの解釈がある。
「ちぢまりきった極限」とする説(延促対)
『浄土文類聚鈔』の文を根拠とする。「のびる(延)」に対して「ちぢまる(促)」ということで、極促は「ちぢまりきった極限」を意味する。
往生の心行を獲得する時節の延促について、乃至一念といふなり
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.480より)
「はやさの極限」とする説(奢促対)
「行文類」の「奢促対」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.199)という言葉や『尊号真像銘文』の文を根拠とする。ここでは「念仏の行者はすみやかに(促)さとりに至るが、諸善の行者はおそい(奢)」ということを述べている。「おそい(奢)に対して「はやい(促)」ということで、極促は「はやさの極限」を意味する。これを言い換えると極めて短い時を意味する。
「機有奢促者」といふは、機に奢促あり。「奢」はおそきこころなるものあり、「促」はときこころなるものあり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.668より)
「ちぢまりきった極限」とする説が有力(※1)
前説の根拠となる『浄土文類聚鈔』の文は今まさに論じている本願成就文の「乃至一念」についての解釈である。一方、後説の根拠となる「行文類」の言葉は念仏を修める人と善行を修める人を対比していわれたものであり、『尊号真像銘文』の文も信心そのものについて示されたものではない。このことから極促を「ちぢまりきった極限」と解釈する前説が有力である。
前説に従うと「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふ」なので、「延」は「乃至(※2)」に対応し、「促」が「一念」に対応する。つまり信心が開けおこった後、その信心はその人の寿命の分だけいくらでも延びるものであり、その延びたものがちぢみきったところ(※3)が一念であり、極促なのである。本願成就文の乃至一念については後日公開予定の仏教知識「[安心論題 三』- 歓喜初後」も参照のこと。
まとめると信一念とは「信心の時剋の極促」であり、これは「信心の始まりの時」「本願に対して疑いの晴れた最初の時」という意味になる。
- ※1 どちらの説が有力か
- 『安心論題綱要』では延促対説を採用している。『安心論題を学ぶ』では現在は延促対説が有力とされていることが述べられている。『聖典セミナー 教行信証 信の巻』では両説は必ずしも矛盾するものではないと述べられている。
- ※2 乃至
-
浄土真宗ではいくつかの意味があるが、ここでは「~から~まで」のように中間を省略することを表わすために用いられている。時間の長短を兼ねおさめるということである。先に引用した『浄土文類聚鈔』の中で、引用箇所の直前で次のように述べられている。
『経』(大経)に「乃至」といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.479より)
- ※3 延びたものがちぢみきったところ
- 手で引っ張って伸ばしきったゴムひもから手を離した時にゴムひもが縮むところをイメージするとよい。
義相(本論)
あらためて本願成就文を見ると「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」とある。
「信心歓喜」とは信楽のことをいっている。また「願生彼国」とは彼の国(浄土)に生れたいと欲することであるから欲生のことをいっている。つまり本願成就文には至心・信楽・欲生の三心が揃っている。ここで、至心と欲生は信楽一心におさまる。すなわち衆生の信心(信楽)の本質は阿弥陀仏のはたらきによって成立している真実心(至心)であり、浄土往生を願う(欲生)心は信楽から浄土往生を疑わない心を別に開いて取り出したものである(仏教知識「『安心論題 二』- 三心一心 後編」の「三重出体」「三心即一」を参照)。至心・信楽・欲生にあたる部分を簡略化して信楽一つにまとめ、また今の議論に関係のない唯除の文を外すと本願成就文は「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 即得往生 住不退転」となる。
つまり「一念」(時剋の極促 = 信心の始まり)に「即得往生 住不退転」する。「即得往生、住不退転」は仏教知識「即得往生」で解説しているように「正定聚(不退転)の位に就き、やがて必ず往生成仏する身に定まる」という意味である。そして「信心歓喜」は「聞其名号」を受けるので、「名号のいわれを聞いて、信じよろこぶ」その時が「一念」である。「即」は「ただちに」という意味なので、「名号のいわれを聞いて、信じよろこぶその時に、ただちに正定聚(不退転)の位に就き、やがて必ず往生成仏する身に定まる」ということになる。
つまり信心が始まるのと往生成仏が決定するのは同時である。同時ということは他の何ものも関与しないということであり、信心以外には往生成仏の因となるものは存在しないということである。親鸞が『歎異抄』「第一条」で「念仏を称えたとき」ではなく「念仏を称えようという思いがおこるとき」(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)P.4より』)と述べているように、念仏も往生成仏の因ではない。
一念覚知の異安心(※4)
前説の内容によりこの記事の概要で述べた内容は示された。次にこの論題に対する異安心について紹介する。「人は信一念(信心の始まり)を自覚できるのか?」という論争(「一念覚不の論争」)がある。これは「いつ信心をいただいたのかはわかるものなのか?」と言い換えることができ、いつ信心をいただいたのかがわかるという説を「一念覚知」という。この説が誤りである理由を述べる。
「信心をいただいた時に今いただいたということがわかる」もしくは「その時にはわからなくとも後から振り返ればいついただいたのかがわかる」という2つの説がある。いずれにせよ信心をいただいたのであれば、いついただいたのかが必ずわかるといっている。これは「いつ信心をいただいたのかがはっきりとわからないようでは、本当に信心をいただいたとはいえない、つまり浄土往生もできない」という考え方に発展してしまう可能性がある。
もし信心をいただいた時がわかるのであれば、それは信心の始まりを意識でとらえられるということになる。信心が生涯途切れることなく続くのは信心が意識されないものだからである。もし信心が意識でとらえられるものであったならば、それを途切れさせずに続けることは不可能である(後日公開予定の仏教知識「[安心論題 三』- 歓喜初後」も参照のこと)。。
また、自分の信心について「今獲ようとしている」「今獲つつある」「もう獲てしまった」と思うとき、私の信心とは別に私の信心を眺めている心が存在することになる。信心は一心一向(※5)といわれるが、このような分裂した心は一心一向とはいえない。
さらに、「今信心があることがわかっているということ」と「いつ初めてわかったのかが明らかである」ということは別のことである。例えば自分の両親が誰なのかが今わかっていたとしても、そのことを自覚した瞬間のことを覚えているという人はほぼいない。それと同じである。
そのほか親鸞は『教行信証』「化身土文類」に
建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.472より)
と述べているが、これはあくまで法然門下に入った年を覚えているだけのことであり、いつの瞬間に信心が始まったかを述べているのではない。そのためこの文は一念覚知説を正しいとする根拠にはならない。
これら複数の理由から一念覚知説は誤りとされる。
- ※4 異安心
- 浄土真宗における正統な教義とは異なった理解にもとづく信心のこと。
- ※5 一心一向
- 他の仏や余行に心をかけず、もっぱら阿弥陀仏を信じること。本願寺第8代蓮如が著した『御文章』に何度かみられる言葉。
時剋釈と信相釈
親鸞は信の一念について時剋釈、信相釈と呼ばれる2つの解釈を述べた。詳しくは仏教知識「信一念釈 (2)」を参照のこと。ここでは簡単に解説する。
時剋釈とは「一念」を時剋の極促、つまり時間的な意味で捉えた解釈のことである。この記事の釈名のところで述べている。信相釈とは「一念」を真実の信心のすがたとして捉えた解釈のことである。
「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251より)
「一」とは無二のことであり、「念」とは心のことである。つまり「一念」は一心と同義である。「二心」とは心が揺れ動いて一つに決まらない疑い心を表す。つまり二心が無いということは疑いが無いということである。これは疑い無く本願を聞き受けている信心のすがた(信相)を表している。親鸞は一念を無二心と述べることにより浄土真宗の信心の性格を示した。つまり浄土真宗の信心とは疑わない心であり、これは信一念(信心の始まり)から途切れることなく続いてゆく。この心は無念無想や無心の心ではない。
結び(結論)
本願成就文の「一念」とは信の一念であり、信の一念とは信心の始まりを意味する。信心の始まりの時は浄土往生成仏が決定する時でもあるから、信心のみが往生成仏を決定する因である。信心は意識でとらえられる性質のものではなく、したがって信の一念がいつのことだったのかを自覚することはできない。また、信心は無心や無我の境地といった心ではない。
参考文献
[2] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[3] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[4] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[5] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)