信一念釈 (3)
続いて親鸞は、真実の信心を獲ることによって現生(現世=いま生きている世界)で獲られる十種類の利益について書く。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.251より)
【現代語訳】
金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに、五悪趣・八難処という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。十種とは何かといえば、一つには、眼に見えない方々にいつも護られるという利益、二つには、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、三つには、罪悪が転じて善となるという利益、四つには、仏がたに護られるという利益、五つには、仏がたにほめたたえられるという利益、六つには、阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、七つには、心によろこびが多いという利益、八つには、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、九つには、常に如来の大いなる慈悲(じひ)を広めるという利益、十には、正定聚に入るという利益である。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.233-234より)
五趣八難
浄土真宗本願寺派の梯實圓は「五趣八難」について以下のように書いている(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.339-340)
五趣(五悪趣)・・・迷いの境界を分類したもの
- ① 地獄
- ② 餓鬼
- ③ 畜生
- ④ 人間
- ⑤ 天上
①~③については「三悪道」として分類されているが、『仏説無量寿経』においては④「人間」⑤「天上」も、完全に流転輪廻からは解き放たれてはいないことから悪趣に含まれている。
八難(八難処)・・・仏や仏法に遇うことが困難な状況
- ① 地獄
- ② 餓鬼
- ③ 畜生
- ④ 長寿天
- ⑤ 北倶盧洲
- ⑥ 仏前仏後
- ⑦ 世智弁聡
- ⑧ 感覚器官に障害がある人
①~③については苦しすぎてとても仏法を聞く心のゆとりがない状況であり、④⑤は寿命が長かったり楽しいことが多すぎてさとりを求める心がおこりにくく、⑥については、仏(仏陀、釈尊)が生きていた期間の前と後に生まれた者は仏陀に遇うことができない、⑦は世間に対する関心が強すぎる者は仏法に耳を傾けにくく、⑧は健常な人よりも仏法が聞きにくいと梯實圓は書いている。
なお、『浄土真宗辞典』では
- ①地獄
- ②餓鬼
- ③畜生
- ④長寿天
- ⑤北鬱単越(辺地とすることもある)
- ⑥聾盲瘖瘂(※1)
- ⑦世智弁聡
- ⑧仏前仏後となっている。
以上のことを踏まえたうえで、梯實圓は親鸞の「横に五趣八難を超えて」という言葉を以下のように解釈する。
しかし、阿弥陀仏の大悲智慧の光明は、十方の世界を隈なく照らし、生きとし生けるすべてのものを障りなく導き育てて、人びとのあらゆる障害を越えて救いをもたらせますから、尽十方無礙光如来と名のられているのです。それゆえ、尽十方無礙光如来の御名に喚び覚まされた人は、何ものにも妨げられることなく、さとりを目指して無礙の一道を歩むものとならせていた だきます。そこに現生の利益にあずかっているという実感も生まれてくるのです。
(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.340より)
現生十種の益
続いて、親鸞は現生で獲られる十種の利益を挙げる。
- ① 冥衆護持の益
- ② 至徳具足の益
- ③ 転悪成善の益
- ④ 諸仏護念の益
- ⑤ 諸仏称讃の益
- ⑥ 心光常護の益
- ⑦ 心多歓喜の益
- ⑧ 知恩報徳の益
- ⑨ 常行大悲の益
- ⑩ 入正定聚の益
それぞれの利益については仏教知識「現生十種の益」を、⑩入正定聚の益については仏教知識「現生正定聚(1)」「現生正定聚(2)」を参照していただきたい。ここでは、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)との関連でいくつかの「益」を補足的に解説していく。
①冥衆護持の益④諸仏護念の益⑤諸仏称讃の益
これらの利益は、他宗教の神々や諸仏・菩薩が信心を獲た人を護りほめたたえるという利益である。これらの経典による引証は同じ「信巻」の「真仏弟子釈」に置かれている。
②至徳具足の益
ここでいう「至徳」とは如来の大悲と智慧が完成された悲智円満の徳のことをいう。如来から回向される信楽は、「至徳の尊号を体とする」(仏教知識「三一問答 (2)」を参照)至心と、大悲の徳である欲生を具えているので、悲智円満の徳であるとした。
⑥心光常護の益
摂取不捨の利益のこと。『観無量寿経』では、念仏の衆生が摂取の利益にあずかるとされている。しかし、親鸞はその利益にあずかる「時」を「信の一念」(前項「信一念釈 (2)」参照」)と解釈し、信心の利益とした。
⑦心多歓喜の益
親鸞は、龍樹(仏教知識「龍樹」参照)が『十住毘婆沙論』において、不退転地(決して迷いの世界に戻ることがない心の状態)を得た菩薩の初地を歓喜地としたことにならい、真実の信心を獲たものもまた不退転であるとした。
⑩入正定聚の益
親鸞は、心光常護の益に見られるように、真実の信心を獲たものは現生において摂取不捨の利益にあずかっているとした。また、信巻の「標挙の文」(※2)にあるように、「正定聚の機」として凡夫でありながら聖者の徳をもつとした。これらのことから「現生正定聚」という親鸞独自の信心の理解が導き出されていく。
- ※1 聾盲瘖瘂
-
聾は聴力に障害がある人、盲は視力に障害がある人、瘖瘂は話す能力に障害がある人を指す。経典や七高僧の聖典とされるものの中には、障害者に対しての差別的な表現が多々みられる。このことについて『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』の補註10「女人・根欠・二乗種不生」にはこのように書いている。
(前略)この聖典が成立した当時の社会では、女人や根欠 (障害者) を卑しく劣ったものとする考えが支配的であった。そうしたなかにあって、この教説は浄土の絶対平等性 (浄土には、差別の対象としての体もなく、またその名さえもない絶対平等の世界であること) をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、女人や根欠に救いをもたらそうとしたものである。(中略)浄土の絶対平等性は、女人や根欠の存在を否定するが、しかし、このことは、現代の一般社会に深く根ざす差別思想、すなわち女性は不浄な存在であり男性よりも罪深いものであるとか、障害者は劣ったものであるとする差別の現実をそのまま肯定することでは決してない。むしろ、浄土の平等性を通して、常に現実の差別を自己の問題として捉えていく営みが大切であることを教え示すものとして受けとめていかねばならないであろう。(後略)
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.1409より)
- ※2 標挙の文
- 『教行信証』各巻の冒頭に挙げられた短い文言のこと。ほかの巻の文言については仏教知識「顕浄土真実教行証文類」を参照。
参考文献
[2] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[7] 『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2009年)
[8] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)