衆生

【しゅじょう】

衆生しゅじょうとは、きとしけるもの。原語げんごは、サンスクリット(梵語ぼんご)で「サットヴァ」、パーリ語で「サッタ」である。「存在すること」「生きもの」「感覚を持つもの」などの意味である。漢訳かんやくされた際には、一般的に六道ろくどう(※1)を輪廻りんね(※2)する生きものとして訳された。ぶつや仏の境地きょうちと対比して用いるときは、「菩薩ぼさつ」(※3)「声聞しょうもん」(※4)「縁覚えんがく」(※5)と六道を加えて衆生とする。「新訳しんやく」(仏教知識「新訳」参照)では、「有情うじょう」と訳され、その他漢訳に「含識がんしき」「群生ぐんじょう」「群萌ぐんもう」などがある。

衆生の意味を解説したものとして、『大乗だいじょう義章ぎしょう』(慧遠えおん)巻十には、

衆多生死名曰衆生。 (『大正新脩大蔵経』第44巻 P.659上より)

とあり、衆多しゅた(数多く)の生死しょうじ(迷い)を繰り返すので「衆生」と名づけるとしるされている。

多くの経典きょうてんに「衆生」の訳語やくごが用いられるが、『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』でその一つをげると、阿弥陀あみだ如来にょらい法蔵ほうぞう菩薩の時におこした四十八しじゅうはちがん誓願せいがんの「第十八願だいじゅうはちがん」に、

たとひわれぶつたらんに、十方じっぽう衆生しゅじょう至心ししん信楽しんぎょうしてわがくにしょうぜんとおもひて、乃至ないし十念じゅうねんせん。もししょうぜずは、しょうがくらじ。ただ五逆ごぎゃく誹謗ひほう正法しょうぼうとをばのぞく。 (『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.18 より)

とあり、これに「第十九願だいじゅうくがん」、「第二十願だいにじゅうがん」と合わせて、衆生の往生おうじょういんちかわれているので、「生因三願しょういんさんがん」(仏教知識「生因三願」参照)と呼ばれる。

 

一般的にここでの「衆生」は「人間」を指しており、現代語訳などでも「人々」と訳される場合が多い。果たして原語の意味を狭小きょうしょうさせる根拠はどこにあるのかは検討の余地がある。「人間」であれば、サンスクリット(梵語)で「マヌシャ」(考えるもの)という語があるが、原典げんてんで「衆生」にあたる部分では「サットヴァ」しか使用されていない。

※1 六道
衆生が生死を繰り返してさまよう、迷いの境界きょうがい(自らの行為によって受けている境遇)を六つに分けたもの。
地獄じごく
餓鬼がき
畜生ちくしょう
阿修羅あしゅら
人間にんげん
てん
※2 輪廻
生あるものが生死を繰り返すこと。原語はサンスクリット(梵語)で「サンサーラ」。「さまざまな状態をさまよう」を意味する。
※3 菩薩
初期仏教しょきぶっきょうでは、さとりを開く前の釈尊しゃくそん。原語はサンスクリット(梵語)で「ボーディサットヴァ」で漢訳「菩提ぼだい薩埵さった」の略。「さとりに定まった衆生」を意味していたが、その後、出家しゅっけ在家ざいけ・男女を問わずさとりを求めて修行しゅぎょうするものを意味するようになった。(仏教知識「菩薩」参照)
※4 声聞
原語はサンスクリット(梵語)で「シュラーヴァカ」。「声を聞くもの」を意味する。初期仏教では釈尊の弟子たちを指したが、その後、煩悩ぼんのうるが、みずからのさとりのみを目的とするものとされた。
※5 縁覚
原語はサンスクリット(梵語)で「プラティエーカ・ブッダ」。誰かに教えをうことなく「ひとり」(プラティエーカ)で直感してさとるもの。独覚どっかくとも訳す。さとりを開いても他にその内容を説法せっぽうすることはない。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1996年)
[4] 『大正新脩大蔵経 第44巻』(大蔵出版 1990年)

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