戦国本願寺外伝 第八章 寛正の法難①
寛正とは元号のことであり(1460年-1466年)、法難とは仏教徒や教団が迫害や弾圧を受けることをいう。この寛正年間には様々な出来事が起こった。まずは寛正の大飢饉が発生した。この飢饉は寛正の一つ前の元号である長禄年間(1457年-1460年)から続いており、京都だけではなく全国的に飢饉が流行していた。各地域の人が飢えや流行病から逃れるため、物資が豊富な都へやっとの思いでたどり着くが、京都もまた地獄絵図となっていた。鴨川は現在も京都の中心地を流れ、人々の憩いの場として存在し平和な風景を楽しめる。しかし、当時の四条大橋からは北を見ても南を見ても遺体が山積みに放置され、川の水は遺体で塞き止められていたという。ある僧侶がせめてもの供養として遺体に卒塔婆を供えた。八万四千本の卒塔婆を用意したところ、全ての遺体に供え終わった時には二千本しか余らなかったとされる。遺体を火葬であれ土葬であれ膨大な数であるがゆえに、衛生状況も劣悪極まりない。この大飢饉が治まる雰囲気ではなかった。
本願寺第八代蓮如自身もこの事態を目の当たりにして感じたことがあっただろう。死と隣り合わせの現実から、人々の心の拠り所として、宗祖親鸞が説いた南無阿弥陀仏を称える教えを教化していった。先述の「戦国本願寺外伝 第六章 近江の有力門弟たち」で金森の善従に『御文章』を作成した時期もこの頃であった。そのような危機的な時代であったが、1461年(寛正2)蓮如はなんとか親鸞の二百回忌法要を勤修した。この時、蓮如が本願寺住職を継職してから四年の歳月が経っていた。その間に御本尊の制定を行い、親鸞が著した『顕浄土真実教行証文類』の「行文類」巻末「正信念仏偈」を簡明に解説した『正信偈大意』を作成し、琵琶湖の湖南・湖西地域を中心に布教活動を行っていた。人々に「信心をいただいて称名念仏する」親鸞の教えを広めた。
しかし、これらの布教活動は湖西に位置する比叡山の天台宗延暦寺を強く刺激していた。延暦寺からすると当時の本願寺は天台宗三門跡のひとつ青蓮院の子院という認識であった。実際に本願寺は第三代覚如の時代から比叡山の末寺として位置づけられ、本願寺第四代善如以降は天台宗の支配下にあった。しかし、蓮如は天台教義を教化することはなく、親鸞の教えを説き天台の本尊は焼却し独自の本尊を制定した。しかも比叡山からすぐ近くの堅田、金森、赤野井で布教活動するとなると比叡山側も黙ってはいなかった。比叡山は当時の最高学府かつ宗教的絶対権力者の立場であり、また荘園領主の立場でもあった。これ以上見過ごすわけにはいかない比叡山は蓮如が行ったこれらのことを邪法とした。比叡山は大谷本願寺に対して末寺銭の増額と天台宗所属の寺院であることの確認をしたが、蓮如はこれらを無視した。このような中、1465年(寛正6)正月八日比叡山側は自分たちの教義にない勝手な布教活動をしたこと、さらに仏像や教典を焼きはらった行為に対する告発文を大義として掲げた。これを決議した翌日には完全武装した比叡山僧兵が大谷本願寺を襲撃した。本願寺も比叡山の動きは察知していた。しかし正月早々の告発文を決議した翌日に比叡山が武装蜂起するとは思ってもいなかった。この時、堅田・赤野井の門弟たちが本願寺を護っていたが、防戦もむなしく逃げることになり、本願寺は焼失だけは免れたもののメチャクチャに破壊された。この日偶然に、堅田から本願寺へ参拝に来た門徒の伊尾毛尉という桶屋がいた。この桶屋の桶を外に運び出すところに便乗して蓮如は命からがら本願寺を脱出したという伝説がある。その後は近隣の本願寺側の寺院に避難していた。同年三月にも襲撃され、本願寺は木っ端微塵となってしまった。この二度の襲撃のことを大谷破却ともいう。
