戦国本願寺外伝 第九章 寛正の法難②

【せんごくほんがんじがいでん09 かんしょうのほうなん02】

本願寺第八代蓮如れんにょ畿内きないを中心にきょう活動かつどうを行っていた。しかし比叡山ひえいざんにある天台宗延暦寺てんだいしゅうえんりゃくじはこの布教活動をこころよく思わず、本願寺に対して二度襲撃を行い、本願寺は完全に破壊された。蓮如は、このとき命は助かったが、常に命を狙われている立場であったため、京都、南近江みなみおうみ河内かわち摂津せっつを転々とする身となった。襲撃から辛うじて守られた宗祖親鸞しんらんの影像は京都の室町むろまち壬生みぶを経てかねがもり堅田かたたに移された。

1465年(寛正6)三月二十一日、比叡山は本願寺へ二度目の襲撃を敢行かんこうした。その次に現在の守山市にある金森を攻撃した。二度目の襲撃から二日後のことであった。激しい攻防戦の末、一時は反転攻勢に転じるも収拾のつかない事態におちいっていた。金森の善従ぜんじゅうは自分たちの築き上げた村を燃やし、それぞれが撤退した。さらに比叡山は金森を襲撃した翌日に赤野井の道場も襲撃した。本願寺は一度目の襲撃の際に青蓮院しょうれんいんを介して三千ひき(およそ現在の三百万円)の示談金を支払った。示談金を支払ってもなお比叡山は二度目の襲撃を敢行した。もはやこの泥沼化したこの戦いが終わることはなかった。一度目の示談金にしても当時の本願寺が支払うには厳しい額であった。この示談金を現在の愛知県岡崎市にある上宮寺じょうぐうじ如光にょこうたちが工面した。現在の愛知県岡崎市おかざきし安城市あんじょうしを流れる矢作川やはぎがわに隣接する上宮寺、勝鬘寺しょうまんじ本証寺ほんしょうじは現在の三重県津市に専修寺せんじゅじを構える真宗高田たかだ派に属する寺院であった。この三つの寺院は三河みかわ三ヶ寺さんかじと呼ばれ、浄土真宗の信仰が根強い地域であり、後に誕生する徳川家康の家臣たちの多くはここに属していた。家康を悩ませる三河一向いっこう一揆いっきの地である。三河三ヶ寺は東海地域や伊勢、江戸にいたるまで多くの道場を所有する寺院であった。如光は寛正年間の初期に高田派を抜け、本願寺に帰依きえしたとされる。このことで専修寺と本願寺には大きな軋轢あつれきが生まれ、本願寺が比叡山に襲撃された際には専修寺は比叡山側の立場についた程であった。如光たちの力によって賠償金問題は解決したが根本は全く解決しなかった。

比叡山西塔さいとうは本願寺との和解に向けて1467年(応仁1)三月、本願寺に対して安堵状あんどじょうを送った。その内容は本願寺が延暦寺西塔さいとうの末寺になること。毎年末寺銭三十貫文(= 三千疋)を比叡山延暦寺西塔の釈迦堂しゃかどうへ納めること。またこれとは別に西塔、東塔、かわの三塔へ納め、さらに百五十以上の寺院がある十六谷へ三千貫もの金を納めることになった。蓮如が本願寺住職を退き五男の実如じつにょ(この時は子供であるためいみな光養丸こうようまる)を後継にすることであった。これは事実上蓮如の本願寺八代の引退をあらわしている。長男である順如じゅんにょはこの時二十六歳であり、実如は十歳の時であった。順如は1442年(嘉吉かきつ2)に蓮如の長男として生まれた。蓮如は多くの子供に恵まれるが、本願寺の財政難によって多くの実子たちは里子に出すことがあった。しかし順如だけは常に蓮如のそばにおいていた。また順如は人付き合いが上手であり本願寺の外交を担っていた。蓮如と順如は室町時代の有力者であった日野ひの氏の猶子ゆうし家督かとくや財産などの相続・継承を目的としない親子関係)であった。順如は室町幕府第八代将軍足利義政あしかがよしまさの正妻であった日野ひの富子とみこの兄である左大臣日野ひの勝光かつみつの猶子でもあった。順如のことは比叡山もよく知っていた。二十六歳の順如は年齢的に継職してもおかしくない時期であったが、蓮如とともに比叡山にとって不都合な布教をしたことの責任として後継者から外されたと考えられる。一方で比叡山は順如の能力を認めていたうえでの措置であったともされる。まだ十歳の実如を比叡山が選んだ理由は、この時期の蓮如の妻であった蓮能尼れんのうにの長男であったからである。しかし、十歳の子供を後継に指定することは極めて異例のことであった。比叡山がここまで口を出してきた理由は延暦寺西塔の末寺になる前提であった。末寺になるということは住職を指名する権利は延暦寺にあるということになる。しかし蓮如は即座に返事をしなかった。そして西塔へ毎年末寺銭三十貫文を納めるというこのお金は今後七十年近く支払うことになった。


現在の本願寺赤野井別院山門

本願寺赤野井別院本堂

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