『安心論題 五』- 信心正因

【あんじんろんだい 05 しんじんしょういん】

安心論題あんじんろんだい(十七論題)」にもうけられた論題の一つ。信心正因はその5番目に位置づけられる。

なおこの記事はあくまで安心論題に規定される「信心正因」の項を解説したものである。「真宗の本棚」では仏教知識「信心正因」を別途設けており、そちらでは信心正因の意味の他に七高僧しちこうそうから宗祖しゅうそ親鸞しんらん、そして本願ほんがん第3代覚如かくにょ、第8代蓮如れんにょに至る流れが説明されている。併せてご参照いただきたい。

題意(概要)

浄土じょうど真宗しんしゅうにおいて、衆生しゅじょう阿弥陀あみだぶつ浄土じょうど往生おうじょうして成仏じょうぶつするための因は信心ただ一つである。そのことを明らかにするのがこの論題である。本願(第十八願)には信心と称名しょうみょう(※1)とが誓われているが、往生成仏のまさしき因となるのは信心であり、称名はそうではない。この論題は称名を正因と考える安心あんじん(※2)などに対して設けられた。

※1 称名
ここでは阿弥陀仏の名号みょうごう南無なも阿弥陀あみだぶつ)を口に称えることをいう。
※2 異安心
浄土真宗における正統な教義とは異なった理解にもとづく信心のこと。

しゅっ(出典)

信心正因の語は親鸞のあらわした「さんじょうさん」の『正像末しょうぞうまつ和讃』に現れる。

不思議ふしぎぶっしんずるを ほういんとしたまへり
信心しんじんしょういんうることは かたきがなかになほかたし

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.608より)

他にも信心正因の意味を表すもんが多数あり、『けんじょう真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』(『教行きょうぎょうしんしょう』)「ぎょう文類」にある「しょうしん念仏ねんぶつ」では曇鸞どんらんだいたたえる箇所で次のように述べられる。

しょうじょういんはただしんじんなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.206より)

また、『教行信証』「しん文類」の中にも多数現れる。

大信心だいしんじんは、すなはちこれ(中略)しょうだいはん真因しんいん、(後略)

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.211より)

はん真因しんいんはただ信心しんじんをもつてす。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.229より)

信心しんじんしんなきがゆゑに一念いちねんといふ。これを一心いっしんづく。一心いっしんはすなはち清浄しょうじょうほう真因しんいんなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251より)

これらのうち、「ただ(唯)」と書かれた文では特に「信心だけ」という意味が強調されているといえる。また、そもそも「信文類」が信心正因を表した巻ということもでき、「信文類」にはこれら以外にも信心正因を表す文が多数ある。

しゃくみょう(語句の定義)

信心

ここでいう信心とは第十八願(本願)文に誓われている信心のことである。以下に漢文と書き下し文を示す。なお引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。下線は筆者が引いた。

せつとくぶつ十方じっぽう衆生しゅじょう至心ししん信樂しんぎょう欲生よくしょうこく乃至ないし十念じゅうねんにゃく生者しょうじゃしゅしょうがく唯除ゆいじょ五逆ごぎゃく誹謗ひほう正法しょうぼう

(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.31 より)

たとひわれぶつたらんに、十方じっぽう衆生しゅじょう至心ししん信楽しんぎょうしてわがくにしょうぜんとおもひて乃至ないし十念じゅうねんせん。もししょうぜずは、しょうがくらじ。ただ五逆ごぎゃく誹謗ひほう正法しょうぼうとをばのぞく。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.18より)

このように本願にはしんしんぎょうよくしょうこく)の三心が誓われている。そして、この三心はそのまま信楽一つにおさまる。信楽とは疑いなく本願の名号(南無阿弥陀仏)を信じ受け入れた心であり、無疑むぎしんともいう。詳しくは仏教知識「三一問答 (4)」、「三一問答 (5)」、「『安心論題 二』- 三心一心 前編」、「『安心論題 二』- 三心一心 後編」、などを参照のこと。

要するに「信心正因」の「信心」とは至心・信楽・欲生の三心であり、同時に信楽一心のことをいっている。また、これは第十八願じょうじゅもん(本願成就文)における「信心かん」の信心でもある。

正因

正因とは「しょうとうの因」という意味で、浄土に生まれてさとりを開くための「正しき因」ということである。もう少し詳しくいうと、浄土往生・成仏という結果を引き起こすべき因が私たちのところで成立することをいう。ここで注意しなければいけないのは、私たちを往生成仏させるはたらきをそなえた阿弥陀仏の名号が因となるのではなく、それを疑いなく信じ受け入れた私たちのところで成立することが因となるということである。これら二つは区別して扱う。「正因と業因ごういん」の項で詳しく解説する。

 

まとめると、私たち衆生を往生・成仏させる因としての名号は既に完成されているが、それ自体が正因となるわけではない。この名号を信じ受け入れることで、初めて私たちの往生・成仏はけつじょうする。この信心以外に往生・成仏のための正しき因はない。これを表した言葉が信心正因である。

そう(本論)

法体ほったいじゅ

いくら阿弥陀仏の救いの力が完成されているといっても、私たちのところでその力がはたらかないことには私たちは往生・成仏することができない。阿弥陀仏の救いの力(はたらき)について考えるとき、「救いの力・はたらきそのもの」という観点で検討する場合はこの力を「法体」といい、「私たちのところではたらいている力」という観点で検討する場合はこの力を「機受」と呼んで区別する。

第十八願には私たちの信心(至心信楽欲生我国)・称名念仏(ないじゅうねん)・往生(にゃくしょうじゃ)が誓われている。このことから第十八願には機受の全相ぜんそうが示されているといわれる。機受の全相とは私たちが救いの力を受け取ったすがたの全て、つまり私たちが名号を疑いなく信じ受け入れ、念仏を称える様子である。第十八願とは私たちに名号を信じ受け入れさせて、念仏を称えさせて、浄土へと往生させようという阿弥陀仏の誓いなのである。

正因と業因

正因に似た単語に業因がある。業因とは結果を引き起こす原因となる力・はたらきという意味である。浄土真宗の教義を整理するにあたり、正因と業因とは便宜的べんぎてきに使い分けられる。業因は私たちを浄土へと生まれさせる力・はたらきそのものを指している。これが先に述べた法体である。正因はその力・はたらきが私たち一人一人に具体的にはたらいていることをいう。これが先に述べた機受である。

ただし、この使い分けはあくまで便宜的なものであり親鸞がこの通りに使い分けているわけではない。

信心と称名

先に述べたように第十八願には信心と称名念仏が誓われているが、正因となるのは信心だけである。何故かというと、この信心は阿弥陀仏より回向された(めぐまれた、いただいた)信心だからである。この信心は阿弥陀仏が完成された名号を信じ受け入れたすがたであるので、名号に具わるどくが全て衆生の上にめぐまれている。だから、名号をいただいたところで往生・成仏の因が決定する。

信心が先、称名が後

阿弥陀仏の力が私たちのところではたらくことにより、私たちの救いが成立する。その際に阿弥陀仏の力はどのようにはたらくのだろうか。第十八願には先に「至心信楽欲生我国」、その後に「乃至十念」が示されている。つまり信心が先で、その後に念仏ということになる。ではここで、信心が成立した時に救いが決定するのか、お念仏が出てきた時に救いが成立するのかという問題がある。

乃至十念

第十八願には「十念」の称名に「乃至」という語が冠されている。乃至にはいくつかの意味があるが、ここではいっじょうといって称名の数の多い・少ないを問わないという意味になる。数が関係ないということは称えるという行為が往生・成仏の可否に何ら関わらないということである。つまり私たちの救いが決定するのは信心が成立した時であり、その後に念仏を称えていなくとも既に救いは成立しているのである。

第十八願文と第十八願成就文の比較

ここで第十八願文と第十八願成就文を並べてみる。なお引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。

せつとくぶつ十方じっぽう衆生しゅじょう至心ししん信樂しんぎょう欲生よくしょうこく乃至ないし十念じゅうねんにゃく生者しょうじゃしゅしょうがく唯除ゆいじょ五逆ごぎゃく誹謗ひほう正法しょうぼう

(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.31 より)

しょしゅじょうもんみょうごう信心しんじんかんない一念いちねんしんこうがんしょうこくそくとくおうじょうじゅう退轉たいてん唯除ゆいじょぎゃくほうしょうぼう

(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.64-65より)

「法体と機受」の項で述べたように第十八願文には信心も称名念仏も示されており、そのため第十八願文には私たちが阿弥陀仏の救いの力を受け取ったすがたの全てが示されているといわれる。一方、第十八願成就文には称名念仏は示されておらず信心しか示されていない(※3)。こちらには救いの力がはたらく際にかなめとなる信心のみが示されているといえる。これを機受の極要ごくようという。

※3 第十八願成就文と称名念仏
第十八願文に「乃至十念」があるように第十八願成就文には「乃至一念」がある。親鸞は乃至十念を十声の称名念仏と解釈し、それに対し乃至一念を一声の称名念仏ではなく信心と解釈した(仏教知識「本願成就文」、「信一念釈 (1)」、「『安心論題 六』- 信一念義」など参照)。だから第十八願成就文には称名念仏は無く信心しかない。

論題「信心正因」のあらわす意義

この「信心正因」という論題によって2つの意義が明らかになる。1つには、第十八願文に「乃至十念」として示される称名念仏は往生のための正因ではなく、信心のみが正因であるということである。

もう1つは、第十九願や第二十願に説かれる自力往生の教えにおいては私たちの行が必要となるが、これに対して第十八願に説かれる他力往生の教えは信心以外に何も必要としないということである。つまり信心ひとつによって往生・成仏できることが明らかにされる。このことを唯信ゆいしん独達どくたつという。(これら3つの願の比較については仏教知識「しょういん三願さんがん」などを参照のこと)

往生 = 成仏

ここまで「往生・成仏」として往生と成仏をセットにして述べてきたが、これは浄土真宗においては阿弥陀仏の極楽浄土へ往生した者は同時に成仏する(さとりをひらく)からである。これをおうじょうそくじょうぶつという。だから信心は往生の正因であると同時にさとりの正因でもある。

結び(結論)

私たちの往生即成仏は、南無阿弥陀仏を信じる信心一つを正因として決定する。この救いは私たちの称名念仏が役立って成立するものではない。

参考文献

[1] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[3] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[4] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[5] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)

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