一念多念分別事
はじめに
『一念多念分別事』(一巻)とは、浄土宗の宗祖法然(1133~1212)の門弟で 浄土宗長楽寺流(※1)の祖である隆寛(1148~1227)が法然から伝えられた「念仏往生」(※2)について著したものである。当時、法然門下におこった「一念義」(※3)と「多念義」(※4)の諍論(論争)に対して、「一念の証文」と「多念の証文」をそれぞれ経典や註釈書を引用しながら示して、どちらにも偏ってはならないと著したものである。
本書は隆寛の真蹟本(自筆本)はなく撰述年も不明であるが、没年から考えて1227年以前に書かれたことになる。また、浄土真宗の宗祖親鸞が書写したものをさらに書写したものが遺されているが、親鸞真蹟の写本は見つかっていない。これら多くの写本の奥書には「建長七乙卯四月二十三日 愚禿釈善信八十三歳これを書写す」とあり、少なくとも親鸞は、1255年までに手に入れていたようである。
構成とその内容
これより『一念多念分別事』の構成と要点を挙げる。
(1) 執筆の背景
まずは冒頭に、本書の執筆の背景が示されているので次に挙げる。
念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1371より)
【意訳】
念仏の行について、ただ一声の称名念仏によって浄土往生は定まるという「一念」の義を主張する者と、数多く称名念仏を相続することによって往生は定まるという「多念」の義を主張する者との論争が、このごろさかんに行われるようになった。これはきわめて重大な問題であり、よくよく慎まなければならない。(『一念多念文意講読』P.52より)
そして、一念義・多念義に偏ることは、阿弥陀如来の本願の本旨(中心的な意味)に背き、善導の教えを忘れていることであると誡めている。
(2) 一念と多念の関係性
一念というのは、一声の念仏にそなわる無上の功徳をたよりとして、その広大な利益を敬いいただくことであり、一念~一時(二時間)~一日~一ヶ月~一年~生きのびた年数の念仏となるとしている。つまり、多念というのは一念の積み重ねであって、別けられるものではないと示している。
(3) 一念を謗るものへの誡め(多念義派に向けて)
多念でなければならないというのならば、『仏説無量寿経』「本願成就文」などに説かれている「乃至一念」とはどういうことなのかと疑問を投げかけ、続いて善導の『往生礼讃』にある「歓喜至一念皆当得生彼」などを引用しながら、これらを用いないのは浄土教のあだ(敵)であると誡めている。
(4) 多念を謗るものへの誡め(一念義派に向けて)
一念に偏執して、多念が心得違いというのであれば、『仏説無量寿経』「第十八願文」の「乃至十念」や『仏説阿弥陀経』にある「一日乃至七日」の称名を理由もないのに説かれているのかとした上で、善導の『往生礼讃』や『法事讃』を引用しながら、一念に偏執するのは善導の教えを誤りとすることだとして誡めている。
(5) 一念と多念の関係性
ここで再び、善導の『往生礼讃』や『法事讃』を引用しながら一念の積み重ねが多念であり、一念と多念が離れたものではないことを示している。
(6) 一念にも多念にも執着してはならないとの再確認
最後に一念義派と多念義派の争いを止めて、お互いに執着してはならないとし、執着する者は必ず悪い死に方をすると誡めている。多念は一念であり、一念は多念であると結んでいる。
ここまで本書の構成と要点を記した。隆寛については、長楽寺流の祖とされることから「多念義派」とされることがある。これは、隆寛の弟子であった智慶などの影響により長楽寺流が「多念義派」へと変遷していったためと考えられる。しかし、本書を見る限りは「一念義派」「多念義派」両者に偏ることのないように誡めていることから「多念義派」とするのには無理がある。確かに隆寛の伝記などでは、三万五千遍、あるいは八万四千遍の称名を日課としていたとされるが、これは「多念」なのであって、このことから直ちに「多念義派」とすることはできない。もしそうであるのならば、回数の違いはあれど法然や親鸞をはじめ、多くの浄土教の者が「多念義派」となってしまう。
親鸞と『一念多念分別事』
親鸞は隆寛を正しい念仏の教えを勧める「善知識」(仏教知識「善知識」参照)として敬っており、この『一念多念分別事』を何度も書写して関東の門弟に送っていた。また、『一念多念分別事』の註釈書として『一念多念文意』を著しているが、これは『一念多念分別事』の単なる註釈書を超えて親鸞の新たな教学が展開されており、浄土真宗の教義を知る上でも重要な書物となっている。ここで注意するべきことは、隆寛と親鸞にとって「一念」とは何かということである。隆寛は「一念」を当時の法然教団で一般的であった「行の一念」(称名)とするのに対して、親鸞はその「行の一念」(称名)に加えて、『一念多念文意』では「信心をうるときのきはまり」として「信の一念」と捉えているところである。
- ※1 長楽寺流
- 浄土宗の五流の一つ。多念の称名によって臨終往生が確実になるとするので多念義と呼ばれるが、隆寛の教学が反映されたものではなく、これは弟子の智慶などの影響である。
- ※2 念仏往生
- 阿弥陀如来からの本願力によってふりむけられた名号を信じ称えて浄土に往生すること。
- ※3 一念義
- 浄土往生は「一念」(一声の称名または信心)によって決まるという教え。「一念」後の称名は軽視する傾向にある。
- ※4 多念義
- 浄土往生は「多念」(一生涯の数多くの念仏)によって決まるという教え。自らの念仏の功徳をもって臨終往生を願う傾向にある。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『一念多念文意講読』(深川宣暢 永田文昌堂 2012年)