六字釈 (2) ―親鸞聖人の六字釈―

【ろくじしゃく 02】

親鸞しんらんの六字釈

宗祖しゅうそ親鸞は善導大師ぜんどうだいしの六字釈をけながら自らの六字釈を『けん浄土じょうど真実しんじつきょうぎょうしょう文類もんるい』(『教行信証きょうぎょうしんしょう』)「行文類ぎょうもんるい」と『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』に展開した。善導大師の六字釈については仏教知識「六字釈 (1) ―善導大師の六字釈―」を参照のこと。

「行文類」の六字釈

しかれば南無なもごん帰命きみょうなり。ごんは、なり、また帰説きえつなり、せつは、えつこえなり。また帰説きさいなり、せつは、さいこえなり。悦税二えつさいふたつのこえつぐるなり、のぶなり、ひとこころ宣述せんじゅつするなり。みょうごんは、ごうなり、招引しょういんなり、使なり、きょうなり、どうなり、しんなり、はからうなり、めすなり。ここをもつて帰命きみょう本願ほんがん招喚しょうかん勅命ちょくめいなり。発願ほつがん回向えこうといふは、如来にょらいすでに発願ほつがんして衆生しゅじょうぎょう回施えせしたまふのしんなり。そくぎょうといふは、すなはち選択本願せんじゃくほんがんこれなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.170より)

【現代語訳】
 そこで、「南無なも」という言葉ことば帰命きみょうということである。「」のいたるという意味いみである。また、帰説きえつという熟語じゅくご意味いみで「よりたのむ」ということである。この場合ばあいせつえつむ。また、帰説きさいという熟語じゅくご意味いみで「よりかかる」ということである。この場合ばあいせつさいむ。せつは、えつさいとのふたつのかたがあるが、せつといえば、げる、べるという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつがそのおぼししをべられるということである。「みょう」のは、阿弥陀あみだぶつのはたらきという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつがわたしをまねくという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつがわたしを使つかうという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつがわたしにおしらせるという意味いみであり、本願ほんがんのはたらきのおおいなるみちという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつすくいのまこと、または阿弥陀あみだぶつがわたしにらせてくださるというしん意味いみであり、阿弥陀あみだぶつのおはからいという意味いみであり、阿弥陀あみだぶつがわたしをしてくださるという意味いみである。このようなわけで、「帰命きみょう」とは、わたしをまねき、つづけておられる如来にょらい本願ほんがんおおせである。

 「発願ほつがん回向えこう」とは、阿弥陀あみだぶつ因位いんにのときに誓願せいがんをおこされて、わたしたちに往生おうじょうぎょうあたえてくださるおおいなる慈悲じひこころである。

 「そくぎょう」とは、衆生しゅじょうすくためえらられた本願ほんがんぎょうという意味いみである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.74-75より)

善導大師は『観経疏かんぎょうしょ』の「玄義分げんぎぶん」において「南無なも」の二字と「阿弥陀仏」の四字に分けた。善導は「南無」は「帰命きみょう」であり、そのこころには「発願ほつがん回向えこう」がそなわっているとした。そして「阿弥陀仏」について名号みょうごう往生おうじょうぎょうの本質である「そくぎょう」と解釈した。親鸞は次のように「南無阿弥陀仏」を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三面から解釈した。

帰命

親鸞は「帰命」を「帰順教命きじゅんきょうみょう」とは解釈せず、「帰」と「命」の二字に分け、字訓釈じくんじゃく(※)という方法を用いて「本願招喚しょうかん勅命ちょくめい」と解釈した。本願招喚の勅命とは阿弥陀如来の「必ず救う、われにまかせよ」というびかけである。これは善導の二河白道にがびゃくどうたとえ(仏教知識「二河白道(1)」参照)において西の岸から旅人へと向けられた「一心にためらうことなく、まっすぐに来るがよい。私があなたのことを護ろう。」という声のことである。これは「阿弥陀如来の声を聞いて疑いなく信じ、阿弥陀仏に全てをまかせて進め」といっている。つまり、おおせにしたがって阿弥陀仏の名をとなえることである。そのような者に「私があなたのことを護ろう(必ず救う)」と喚びかけている。本願招喚とは阿弥陀如来が南無阿弥陀仏と称える者は必ず救うということである。勅命とは取り消すことの出来ない絶対的な命令のことをいう。

発願回向

善導大師は「私が」発願回向する(浄土に生まれたいと願う)ことをいったが、親鸞は「行文類」では如来を主語に置いた。発願とは法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ(阿弥陀如来の前身)が衆生しゅじょう(生きとし生けるもの)を救うために、浄土に往生させる行がはたらくように願われたことをいう。回向とはこの願いを衆生のもとに向け、衆生に浄土往生への道筋を照らすことである。「行文類」での発願回向は阿弥陀如来が苦しみ生きる衆生に対して何が何でも救うという「慈悲のこころ」をあらわしている。

即是其行

善導大師は『観経疏』「玄義分」で阿弥陀仏の名は即是其行であると述べた。

阿弥陀仏あみだぶつ」といふはすなはちこれその行なり。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.325より)

阿弥陀仏の広大な大悲だいひ慈悲じひ)が浄土に往生するためのはたらきが南無阿弥陀仏として衆生に向けられたとした。親鸞はこの大悲回向の行体こそが選択せんじゃく本願ほんがんとした。この行体は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が衆生を救うために五劫ごこうもの長い時間をかけて考え修行を重ね、衆生に浄土を開く行として与えてくださったことをいう。回向は自ら修行を獲た善根功徳の意味を転換することで往生する因にすることであり、他力に帰することも意味する。善導はこのはたらきを「行」と顕した。行とは正しい生き方のことをいう。また即是其行は選択本願を意味してあり、それは親鸞にとって第十八願のことである。つまり称名念仏をすることであり阿弥陀如来の救いのはたらきをいう。この選択本願は法然が提唱したものである。

このように親鸞は「行文類」において「帰命」「発願回向」「即是其行」の三面から南無阿弥陀仏の六字を「阿弥陀如来のびかけ」「阿弥陀如来が慈悲のこころから衆生を浄土へ往生させたいと願い、衆生にその道筋を照らしたこと」「衆生を浄土へと往生させるはたらき」と解釈した。

『尊号真像銘文』の六字釈

親鸞は『尊号真像銘文』においても善導大師の六字釈の註釈を行った。

言南無者ごんなもしゃ」といふは、すなはち帰命きみょうもうすみことばなり、帰命きみょうはすなはち釈迦しゃか弥陀みだ二尊にそん勅命ちょくめいにしたがひてしにかなふともうすことばなり、このゆゑに「そくみょう」とのたまへり。「亦是やくぜ発願ほつがん回向えこう之義しぎ」といふは、二尊にそんしにしたがうて安楽浄土あんらくじょうどうままれんとねがふこころなりとのたまへるなり。「ごん阿弥陀あみだ仏者ぶつしゃ」ともうすは、「そくぎょう」となり、そくぎょうはこれすなはち法蔵菩薩ほうぞうぼさつ選択本願せんじゃくほんがんなりとしるべしとなり、安養浄土あんにょうじょうど正定しょうじょう業因ごういんなりとのたまへるこころなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.655より)

【現代語訳】
言南無者ごんなもしゃ」というのは、すなわち帰命きみょうというお言葉ことばである。「帰命きみょう」とは、釈尊しゃくそん阿弥陀あみだぶつ二尊にそんおおせのままにそのまねきにしたがうという言葉ことばである。このようなわけで「そくみょう」といわれている。「亦是やくぜ発願ほつがん回向えこう之義しぎ」というのは、二尊にそんまねきにしたがって安楽浄土あんらくじょうどうまれようとねがこころであるといわれているのである。「ごん阿弥陀あみだ仏者ぶつしゃ」ということについて、これを「そくぎょう」であるといわれている。そくぎょうとは、これはすなわちすべてのものをすくうために法蔵菩薩ほうぞうぼさつえらられた本願ほんがんぎょうであるとるがよいというのであり、安養浄土あんにょうじょうどちがいなく往生おうじょうすることがさだまるいんであるという意味いみなのである。

(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』P.26-27より)

「行文類」の六字釈では「帰命」「発願回向」「即是其行」は、いずれも阿弥陀如来の側に立って解釈されている。一方、『尊号真像銘文』では「帰命」と「発願回向」を衆生の側にあてはめて解釈されている。

『尊号真像銘文』の帰命は釈迦や阿弥陀如来の勅命にしたがい、そのすべてを受け入れることばである。二河白道にがびゃくどうたとえには釈尊の「この道を尋ねて行け」という勧めと阿弥陀如来の「必ず救う、われにまかせよ」という喚びかけが述べられている。『尊号真像銘文』の「帰命」は衆生がこの二尊(釈迦・弥陀)の勅命を受け入れてしたがうことをいう。またこの喚びかけを受けて浄土へ往生することに疑い一つ無いこころを「発願回向」とした。次に「即是其行」は「行文類」と同じく、阿弥陀仏という名号が単なる名前ではなく法蔵菩薩が選択された衆生往生のための本願の行であることを述べている。阿弥陀如来が選択された行であるがゆえに、これは浄土へ往生することを決定する業因ごういん(私たちを往生させるはたらき)であり、称名することで浄土へ往生すると述べた。善導大師の「玄義分」の願行具足がんぎょうぐそくということは記載されていないがここを元に親鸞独自の解釈がうかがえる。

善導大師の六字釈は摂論学派に対する主張であり、浄土へ往生するのに必要な願行は南無阿弥陀仏として完成されていることをあきらかにした。親鸞はそれを承け「行文類」『尊号真像銘文』にて南無阿弥陀仏の本質を主張した。阿弥陀如来のはたらきはあくまでも一方通行のものであり、信じること以外はなに一つ用意することなく往生できるということをあらわしたものが南無阿弥陀仏の六字の字義である。

まとめ

 『教行信証』「行文類」『尊号真像銘文』
帰命 「浄土に来たれ」という
阿弥陀如来の喚びかけ
(本願招喚の勅命)
釈迦と阿弥陀如来の
喚びかけを聞いて
衆生が素直に順うこと
発願回向 衆生を浄土へ
往生させたいと願う
阿弥陀如来の慈悲のこころ
喚びかけを聞いて
疑い一つ無く信じ
浄土往生を願う衆生の心
即是其行 ・阿弥陀如来が完成させ、衆生へと回向され、
 衆生の称名の行となってはたらいている名号
・法蔵菩薩が選択された、衆生往生のための本願の行
・衆生を往生させるはたらき

語注

※ 字訓釈
経論や注釈書から特定の漢字を通常の読み方や意味とは別に、音や意味の同じ漢字をあててさまざまな漢字へと展開していき、その原文の真意へと導く解釈の方法。日本天台宗、特に恵心流で盛んに用いられたという。転声釈てんじょうしゃく寄字顕義きじけんぎともいう。

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『図録 親鸞聖人余芳』(浄土真宗本願寺派 本願寺出版 2010年)
[6] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2020年)
[7] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[8] 『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)
[9] 『親鸞聖人の南無阿弥陀仏 ―六字釈のこころ―』(梯實圓 自照社出版 2019年)
[10] 『聖典セミナー 尊号真像銘文』(白川晴顕 本願寺出版社 2007年)
[11] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2018年)
[12] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[13] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)

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